図書出版 文理閣

故細川汀先生の労働安全衛生学遺産を受けつぐため

掲載にあたって 黒川 美富子(文理閣代表)

佐瀬 駿介 (元京都府立山城高校教諭・京都府立桃山高校教諭・京都府立鴨沂高校常勤教諭)

【細川 汀先生の文理閣刊行物】

かけがえのない生命よ
細川 汀 著

【増補新版】
教職員のための労働衛生安全入門
細川 汀・垰田和史 共著
健康で安全に働くための基礎
細川 汀 編著

細川汀先生の
労働安全衛生学遺産を受けつぐために


 2020年1月21日、細川汀先生が亡くなられました。
 心からの哀悼の意を捧げます。

 先生は医学博士として、労働医学・社会医学・地域保健医療福祉など多方面の、実践・研究に取り組まれ、膨大な著作を発表されましたが、私ども文理閣の、
 『健康で安全に働くための基礎―ディーセント・ワークの実現のために』(2010年)
が最後の編著(北川睦彦・伍賀一道・近藤雄二・中迫勝・八田武志)になりました。
その他、
 『健康で安全に働く ―これから働く君たちに』編著(1994年)
 『教職員のための労働安全衛生入門』増補新版 垰田和史氏と共著(1997年)
 『かけがえのない生命よ-労災職業病・日本縦断』単著(1999年)
『頸頚腕障害の医療と快復』復刻版 畑中生稔氏と編著(2002年)
など、どの著作にも、働く人々の健康と生命を守る、科学的メッセージが込められています。先生はたびたび文理閣に来られ、熱心に、関係図書の出版を切望されました。
 残念ながら、いまだに「職業病」や「過労死」のない社会には至っていません。
 先生が生涯、発し続けられたメッセージを、今一度振り返り、その遺産継承のために、かつて、先生の『健康で安全に働く ―これから働く君たちに』を高校生に教えた経験を、佐瀬俊介さんから寄稿いただきました。
 細川先生のメッセージ、平和と健康、働く人々の生きがいのある社会を願い、ここに掲載し、先生への感謝と致します。(文理閣 代表者 黒川美富子)
 『かけがえのない生命』出版のカバー写真撮影のとき。旧日本たばこ会館前にて(撮影 豆塚 猛)

 

故細川汀先生の労働安全衛生遺産を受けつぐために

佐瀬駿介
(京都府立山城高校教諭・京都府立桃山高校教諭・京都府立鴨沂高校常勤教諭・京都府立桃山高校講師退職京都府立高等学校労働安全衛生対策委員会創設・京都府立高等学校労働安全衛生対策委員会委員長なども歴任)

第1章 故細川汀先生の労働安全衛生遺産をすべての人々の中に

 DECENT WORKの実現を当面は日本語訳しない

 DECENT WORKの実現という ILO(国際労働機関)が打ち出した国際的方向の日本語訳をしないままで、『健康で安全に働く これから働く君たちに(改訂版)』のサブタイトルに入れようと言うことで最終的に一致して出版された本が、細川汀先生最後の出版物となった。

細川汀先生は長い闘病生活を経て 2020年1月21日に亡くなられたからである。

 DECENT WORKの実現

 21世紀に向けてILOのファン・ソマビア事務局長は、 DECENT WORKの実現を提案し、ILO総会で承認されたが、 DECENT WORKとは、

・ILOが将来追い求める明確な目標である

・DECENT WORKの実現は、すべての人がそれなりの仕事に就き、家庭を持ち、子供をつくり、年金がもらえて老後も安心して生活することができるという意味

・実現は難しいだろうが、それを達成するのがILOの課題でもあり、責任でもある

とされた。

 そして、 DECENT WORKの実現は、今日のILOの主要な目標は、自由、公平、安全、そして人間としての尊厳を条件として、女性や男性に DECENT WORKで生産的な仕事を確保すること、としている。

アルファベット表記と日本語表記がある意味意図的に混在させられいる政府の意図

 ところが、 ILO東京支局は DECENT WORKの言葉を日本語訳する時に、適切な言葉がみつかりにくかったことを当初述べていた。

 それは、英語訳から日本の概念をあてはめようとするからであり、日本ですでに概念化されていないことを承知していなかったからである。

 現在は、働きがいのある労働などと訳されているが、アルファベット表記と日本語表記がある意味意図的に混在させられ人々に理解不能な状況が作り出されている。

 そのことを見通して細川汀先生と敢えて無理に日本語訳をしないで、後世の人々に一番適切な日本語にしてもらおうではないかという意味で一致したのである。

 改訂版以前の「健康で安全に働くこれから働く君たちに」でも WHOの健康の定義の外務省訳を細川汀先生は鋭く指摘されていたこともあるが、何よりも細川汀先生が専門にしたとされる労働安全衛生研究の目指したものがこの DECENT WORKに籠められていた。

 英語が分からないと決めつけられている生徒が解る英語訳

 ILOの DECENT WORKは、 2002年 4月29日に教科書「健康で安全に働くこれから働く君たちに」の副教材として作成し、高校で生徒たちに教えていた。

 細川汀先生が書かれた「健康で安全に働くこれから働く君たちに」には、当時、外務省が WHOの健康の定義 Health is a state of complete physical, mental and social well -being and not merely the absence of disease or infirmityの well-beingを福祉と訳していたことに細川汀先生は厳しく批判していた。

 健康とはなにかという国際的提起が日本語訳にされると本来の意味とはまったく異り、理解出来ないものにさせれれている事への重大な警鐘と批判であった。

 教えていた高校生は、英語が嫌いという生徒たちがほとんどであったが、なぜか、細川汀先生のwell-beingを福祉と訳す問題には理解を示した。

 現在、カタカナ表記や意味不明な日本語が横行、乱立する中で日本の人々が生きるための基礎知識として持つべきことへ細川汀先生からの警鐘であったのだとも思える。

第2章 高校で労働安全衛生を教えるまでの序章

 高校の定時制課程で「健康で安全に働くこれから働く君たちに」を教科書で教えるに至った経過とそれへの圧力を撥ね除け、生徒たちが細川汀先生が親しみを持って迎え入れられたのには教育実践上の多彩で長期にわたる歴史がある。だが、経過をほんの断面だけを今回は紹介して細川汀先生への哀悼の意を表したい。

 鮮血が飛び散った生徒の傷口と教育

 鷹峯にむかう昔からの街道沿いに家々が立ち並んでいた。その中でも一軒だけ街道より低く建てられる家を訪ねた。

 お母さんと生徒の三人で学校のことや生活のことを忌憚なく話すためだった。言えば教師の家庭訪問であったが、その方法は少し違っていた。

 話し合ったことを記録してクラス新聞に掲載することを了解の元に家庭訪問したからである。もちろん事前・事後も生徒と家族の了解もとった。無理強いはしないで、希望者から家庭訪問した 。
 はじめはほとんどの生徒は消極的だった。だが、クラス新聞の発行にともない何度もクラス新聞を読み大切に持ち帰り家族と読み合い話し合うことが増えていたらしく、次々と生徒から家庭訪問を希望する生徒が増えた。
 うれしかったのは、お互のことをほとんど知ろうとしない生徒が、お互いを理解し合いはじめクラスに和やかな雰囲気が流れるようになったことであった。

 高校の定時制には、人には言えない苦しみや辛さを数え切れないほど背負い、学習の機会がなかったことがそれを加速させ沈黙が唯一の友である生徒は非常に多かった。

 義務教育を受けたとはとても言えない生徒たちに、高校の定時制 4年間で何が出来るのかを摸索しながら手作りクラス新聞も発行し続けていた。

 ぼくの家にも来てくれるのと一言

 クラスでも人一倍沈黙を友とする生徒から、ぼくの家にも来てくれるの、という一言に応えて鷹峯に向かう街道沿いの家を訪ねた。

 定時制の授業が終わってからの午後 10時過ぎの家庭訪問。にもかかわらずお母さんは大歓迎してくれ、わが子の育ちを話され今の学校の様子を聞かれた。ぼくの家にも来てくれるの、と言った生徒は何も話さなかった。

 帰り際、お母さんが戸惑いながら「先生、聞いてください。この子はこんな汚い家に住むのは嫌だと言うんです。」と話を切り出された。

 聞けば、家は代々続く油屋だったので壁は厚くして防火に備え火災の延焼を防ぐために街道より低く造られている。天井や壁は、菜種油を燃やしたすすで黒々としているが、それは我が家が油屋だった証なのだ熱っぽく語られた。
 日本の歴史がその家には塗り込められていたのである。

 天井や柱、壁や昔売られていたであろう油が置かれていた土間を見て改めてその家の歴史の重みを感じた。「お母さん、すごく歴史のある大切な家ですね。」と言って生徒に聞くと「汚い」という一言だけが返ってきた。

 それから数ヶ月経って、ある病院から電話がかかりその生徒がしばらく学校に通えないという連絡があった。

 痛みを堪える以上に感じた優しさ

 飛ぶようにしてその病院に行くと生徒は腕の包帯を外して深々と長く切れた傷を見せてくれた。刀で切りつけられた傷口は縫われていたが赤く染まった肉は縫われた糸から盛り上がってはみ出していた。今だ忘れられない。

 何度か、病院を訪問。生徒は退院して登校してきた状況を聞くと「先生、よかったわ。入院出来て」と言う。
痛みを堪えていたが、その痛みを感じないほど優しい看護婦さんがいた。

 口下手な自分だが、お礼を言いつつ少しづつ話せて、退院してからその看護婦さんと友だちになり、交際がはじまった。
 こんな僕にも女の友だちが出来たと満面の笑みを浮かべ、ザックリ切れた傷跡を見せたが聞いてもうわの空だった 。

 赤く染まった長い傷口。このままでいいのだろうかと思い悩んだ。彼は有名な食品会社でアルバイトとして働いていた。身体に切り込まれた傷跡より嬉しいことが舞い込んだかも知れないが、定時制で学ぶ生徒が多かれ少なかれこのような職場で働き、傷ついている現実は見過ごせない、なにか出来ないだろうかという思いだけが渦巻いた。

労働基準を生徒に知らせともに学ばないと

 考えあぐねた末にたどり着いたが、労働基準を生徒に知らせともに学ぶということであった。
 1970年代初頭の労働基準法は、文字すら十分読めない生徒も含めて教えられるほど今の改悪労働基準法よりはるかに分かりやすく、教えやすかった。

 いま思い出せば、あのこと以降から労働安全衛生を教えるまでの道程は必然の結果だろうと思える。

第3章 切り捨てられていたとも言える生徒の高校での教育

 1970年代初頭の高校の定時制には、就学出来ないかっただけでなく障害や病気の生徒が入学していた。
 さらに中学校時代暴力や「非行」を重ねた生徒たちも入学していたので入学式は騒然とした爆音の中ではじまった。体育館の横を「暴走族」が仲間の入学を「祝った儀式」をしたからである。生徒の大半は怯え、今後の高校通学に不安を覚え保護者はこれが高校か、と教師に詰め寄ることがしばしばであった。

 高校入試は 1次試験と 2次試験があり、 2次試験は 3月末であったため他の高校には行けなかった、というよりは他の高校で受け入れを拒否された不合格としてなった生徒が入学していた。

 当時から1990年代まで京都府立高校の定時制課程では、定時制課程の募集定員通りに入学させず、定員内の受験があっても生徒を「選別」して不合格にするということがまかり通っていた。表向きは、生徒たちが学び得る最後の高校は定時制であると言い続けた教師たちも、定員内の合格に反対していたのである、その言い訳は、入学しても高校での教育についていけないからともいう理由だった。

 だが、募集定員を公募している以上は、募集定員内で生徒を受け入れるのが当然であったが、それら正当な考えは打ち消されていた。

 高校で学びたくて出願しているにもかかわらず就学出来ない、障害や病気、暴力や「非行」を重ねた生徒たちを不合格にして就学させないのは簡単であったが、そうではなく希望する生徒を受け入れて教育をすすめる。天を突くような事件と苦労があった時期に「鮮血が飛び散った生徒の傷口」を見て、定時制の教育の在り方をもう一度基本から考えさざるを得ないと思った。

 高校を退学させられたほうが、高校に来なくてもいい、親も学校に行けと口うるさクいわなくなると考える生徒は、授業を聞くどころか早く終われと騒ぎだし椅子や机を投げる。それを恐れた生徒は登校しなくなるという日々もあった。
 ここで怯んでは高校に入学させた生徒に教育をしたことにならない。暴力行為は絶対許さないで時には退学させることもある。しかし、どうすればいいのかと思い悩んでいた時に、ベテランの英語の先生が「 1年間授業をしていても、今日は生徒も分かったし自分も授業をやり終えたと思える日は一日だけぐらい。」と言って自分の授業をまるごと印刷されて教師に配布された。 TV番組の中にある英語と思える部分に線を入れることから授業をはじめ少しずつ少しずつ英語を学べるようにする学習内容だった。

 「ある時、校門をたむろしている生徒たちが話している声が聞こえてきたんです。おまえなあ、あの英語の先生の授業をサボるようではこの学校に来た意味はないぞ、と。それを聞いて次第に確信が持てはじめました。」と話された。

 教師の間にしばしの沈黙が流れたが、各々思い考えて授業の改革がはじまった。そこには、こうしなければならないとか、こうでないといけないとか、ということはまったくなかった。
 少しずつ少しずつであるが、「あ、解った。こいうことなんや」と授業を理解し、楽しみにする生徒が増えはじめた。学校は楽しい場所なのだということを生徒が教師に教えてくれた合図だった。

第4章 人はうまれながらすべての人がその人自身の人権を持っている

 生徒が仕事で怪我したり、辛い思いをしないようにするのにはどうするのかという授業の内容はまだ確立していなかった。労働関係の本を取り寄せ片っ端から読んで理解しようと努めた。その時、細川汀先生の著作も読んでいたのだが注視して深く読むことはなかった。

 政治経済の憲法を中心に授業をはじめたが、特に基本的人権の項は時間をとれる学習をした。基本的人権、人はうまれながらすべての人がその人自身の人権を持っているということを具体的事例や判例を説明した。ところが、愕いた声が生徒たちから湧き上がった。「先生、俺にも基本的人権があるのか。こいつにも、あいつにも基本的人権があるのか」といつも暴れる生徒からの質問だった。「当然ある、きみにも、あなたにも、みんなにもある、」と答えると授業は終止がつかなくなるほど生徒の声が飛び交った。恐る恐るいつも下を向いているだけの生徒が手をあげた。「僕も?」「当然君も」と言うと目を見開いたままになった。

 それからの授業は、騒ぐ生徒に注意をすると「先生、俺にも基本的人権があるの忘れているんじゃないか」と笑い転げた。

 多くの時間が過ぎてから解ってきたことは、生徒たちは、人権教育、と小学校や中学校で長時間教えられ続けたが、それは自分以外の人の人権を考える、理解するということであり、自分にも人権があるというは教えられていなかったということであった。
 基本的人権を知り、学ぶことは生徒たちがこれから生きる上で絶対欠かせないと痛感した。
労働条件、労働条件、賃金と授業を進めていくと暴走族のボスであって大けがをして後遺症が残り苦しんでいる生徒が突然手をあげた。

 「先生は、オレらの給料のことを言うけれど、じゃあ、先生は月いくらもらっているんや」と聞く、正直に答えるとその生徒は笑い転げて「ウソやろ、オレの十分の一の給料や、ようそれでがまんしているなぁ」と言われて生徒たちの月収を聞くと教師の初任給よりはるかに多かった。
 定時制課程には、 10代から 50代の生徒もいた。だが、聞けば聞くほど教師の給料より高かった。当時は。
「ようそれでがまんしているなぁ」と生徒に言われて改めて教師の労働条件を実践的に学ばねばと思って教職員組合の執行委員に立候補した。

第5章 教職員組合執行委員会の大半は労働基準法を理解していない

 自ら労働条件や賃金や労働者の権利を空論だけでなく実践的に会得しなければ、生徒に笑われてもやむを得ないという決意で臨んだ教職員組合の役員立候補。

 当選して執行委員会に出て愕くばかりのことがありすぎた。あえて、二つだけ書いておく。

 生理休暇をとらないことを評価する婦人部長

 執行委員会で婦人部長(当時の名称)が、京都は生理休暇全国最下位。それほど教育に熱心に取り組んでいると報告があった。
 準看護婦で定時制で学んでいる生徒が生理の時の苦しさを訴えていたことを思い出して「生理休暇は、労基法上でも認められているし、何よりも母性保護から考えても取得すべきではないか。全国最下位と言うことは、それだけ母性保護が守られていないという証ではないか。」と発言した。

 すると、生理休暇で学校を休めば授業が休みになる、どうするの、とてもじゃないが休めないという意見が返ってきた。そこで、婦人部長は、教育委員会代表か、とまで言ったので終止がつかなくなった。
 結局、生理休暇取得問題は、検討課題とされその後執行委員会で論議されることはなかった。

 その後論議になったのは、風疹予防の問題であった。

 結婚している女性教員だけに風疹予防接種に反対

 京都で風疹が流行し、少なくない学校で学級閉鎖が相次いだ。女性教師から風疹がうつると胎児などに重大な問題が生じる恐れがあるため教職員組合として取り組んでほしいという切実な要求が出されてきた。

 婦人部長は、この要求を受けて結婚している女性教師は公費で予防接種が受けられるようにと教育委員会と概略的に一致して、執行委員会の決定を受けて教育委員会に報告、実施させると言った。

 なぜ、結婚している女性教師に限定するのか、と問うと、当然でしょう結婚、妊娠ということになるから、と言われた。

 結婚していなくても妊娠する場合があるし、教師だけに限定して学校職員を除外するのもおかしい。
 予防接種は、すべての教職員が受けることが出来るようにすべきだと主張したが婦人部長は結婚が前提と言って婦人部の考えに反対するのかと激しく言った。執行委員会では、なんとか仲を取り持とうとする意見も出されたが決して怯まなかった。

 1065年、沖縄における風疹の流行と産まれた子どもたちの状況など縷々発言した。特に妊娠初期。風疹に罹患したことが解らないままの場合が多い。予防接種を嫌がる教職員がいるかも知れないが、希望する教職員全員が受けられるようにすべきだと言い続けた。
 結果的に、希望する教職員全員が受けられるように教育委員会と再交渉し、教育委員会もそれを受け入れた。

 生徒たちの賃金未払い会社倒産、回顧問題などに取り組んだ労働組合

 これらの論議は、多々あったが労働基準を実践的に学ぶということは教職員組合では、無理なのかと思っていた。ところが教職員組合から総評副議長にでていた副委員長から民間労働組合の争議に加わるようにとの話があり、各地域の労働争議の支援に加わることになった。そこで学んだこと、出会ったのは定時制生徒の労働と関連する労働組合の人々だった。

 総評で出会ったそれぞれの職域の労働組合の人々は、生徒たちの賃金未払い、会社倒産、解雇問題など数多く生徒の相談を詳細に聞き、生徒と共に行動してくれた。
 そのひとつひとつは、今も胸に細かく刻み込まれている。

第6章 郵便配達と振動病と細川汀先生の論文との出会い

 労働条件、労働条件、賃金と授業を進める中で特に熱心な生徒がいた。
 もう 30歳を超えていたが職業を聞くと郵便配達をしているとのことだった。そこで、郵便配達のバイクのハンドルやクッション等が替えられたことを知っているか、と聞くとよく知っているとの返事。

 郵便配達の労働とバイクと細川汀先生と出会い

 数え切れない本を読んだ中に、たしか郵便配達の労働とバイクのことが書いてあったと思ったからだ。

 生徒は、「組合に行って資料があるか聞いて、あれば借りてくる」と返事。後日、分厚い資料と協定書を持ってきてくれた。この資料が細川汀先生との出逢いだった。

 私が特に愕いたのは、細川汀先生のバイク郵便配達の調査方法と分析であった。

 社会変化と労働形態と健康の縦横の調査と改善提案
 
 細川汀先生は記述していた。

 郵政省の配達用乗物が長く国民に親しまれてきた自転車からバイク(自動二輪および原動機付自転車)に変つてきたのは , 1960年以降。
 通常郵便配達にも使用されるようになったとして、バイクの排気量の変化と郵便物の激増を分析。郵政省の配達作業が自転車からバイクに変つたのは高度経済成長に伴って激增した郵便物を人員を増やすことなく効率的に処理するための機械化のせいと考えられる。

 と分析していた。すなわち社会変化と経済状況とその量と質からバイク郵便労働者の背景を分析していることであった。

 社会医学とは何かを根底から学べたパイク乗務作業者調査報告

 医者は医学的という概念を超えて社会全体から労働者の健康をとらえようとする視点は、それまで読んだ労働関係の本に見いだすことは出来なかった。

 さらにその調査は、全国のパイク乗務作業者の実数は。 7~8万人と推定されそのうち第一次調査では、釧路、小樽、福島、栃木、東京、北陸、岐阜、奈良、和歌山、大阪、岡山、愛媛、大分の 13地区 16,529名を対象とした。

 とするから大規模調査であったことが解った。

 それまでの数百人か、数十人に対する調査で結論づける各種学会報告を見聞きしてきたが、極めて精度の高い調査方法であった。

 のちに細川汀先生にこの時のことを手紙に書くと、先生としては全容解明したかったという考えが書かれていたのには驚愕した。

 すべての労働者が安全で健康に働くことが出来るよう

 強く記憶に残っているのは、バイク郵便配達の場合、①主として舗装道路②主として凸凹道路③主として①と②を走行した場合の身体に与える状況調査だった。

 資料を持って来てくれた郵便配達の携わる生徒と話し合ったが、彼も②主として凸凹道路を走行することが一番身体にダメージを与えるものだと思っていた。

 だがしかし、舗装道路と凸凹道路を交差に配達する場合に身体に一番ダメージを与えるという調査結果だった。このことがのちにエルゴノミックス( Ergonomic)を学ぶ切っ掛けになった。

 当時もその後も労働組合に加入している生徒は数人だったが、細川汀先生の調査に全面的に協力した全逓信労働組合には感心したし、あらゆる職種職域を調査するにあたって労働者全体を考えている細川汀先生に感銘した。

 当時、私が属していた教職員組合は全逓信労働組合と敵対関係とも言うべき状況にあったからである。
組織や政治などで色分けしないですべての労働者が安全で健康に働くことが出来るようにする。そのことの大切さを脳裏に焼き付けられた。

 現に生徒は、細川汀先生の調査結果に基ずく新型バイクで配達していたし、彼もまた改善された経過を労働組合から教えられていた。

第7章 辛辣な批判と定時制廃止と強制異動の嵐

 1970年代後半前後して、高校の定時制課程には昼働きよる学ぶという生徒たちは次第に少なくなって全日制に入学出来ない生徒が多くなってきた。

 京都府立高校の入学試験は、 1次試験と 2次試験があり全日制は定員の生徒を受け入れていたため、高校では定時制課程が 2次試験が行われていたことは前述している。

 私学高校の入学試験がすべて終わった時期に行われる 2次試験は高校進学の最後の機会であった。試験では、京都府教育委員会が発表した定員通り合格者を出したのは残念ながらほとんど無いという結果であったことも同じく述べてきた。

 高校教育不可能とされた生徒の教育を打ち破った授業内容の創造

 京都府教育委員会が公式に発表した定員がその通りに行われていたかどうかは公式に分かることであったが、残念ながらそれらは暗黙の了解の元に「不合格者」を出して受験生は中学浪人するか、それとも高校進学をあきらめるか、の二者択一を迫られていたのである。

 15の春は泣かせない、と蜷川知事が京都府議会で答弁した話は有名であるが、 15歳の春を泣かせるかどうかは京都府教育委員会の肩にかかっていて京都府教育委員会はそれを実行したとは言えない事実が多くあった。

 京都府立高校の定時制の教師の間では定員通りに合格を決めることへの手厳しい批判、中学校側では定時制高校受験をする生徒を選別して定時制課程を受験。中学校で高校なんて行く価値もないと決めつけられた生徒たちがやって来た。
 それ故、生徒指導や基本となる授業を維持するだけで教職員は大きなエネルギーを裂かなければならなかった。

 その困難を打ち破ったのは、授業内容の創造であったことも述べてきた。

 ところが、 1980年代になって校長の姿勢や教職員異動に理解しがたい動きが強まってくる。

 裏で準備されていた定時制課程の廃止

 校長(当時、校長は全日制および定時制を兼務)は、定時制課程の受験生合格にすべきだ合否決定権は、学校の責任者校長にあるとして教師の意見を退けた。
 また「いわゆる問題を起こしたとされる」教師を強制異動させ、校長に反対する教師を理由もなく異動させた。

 荒れる定時制課程の生徒は、一層荒れた。

 また暴力を振るう生徒を「暴力は表現の一つだ」と主張する教師も増え、それまでの授業の創造的取り組みは波状効果を生みださなくなった。学校内外でのさまざまな騒音、器物破損、理解のあった町内会の人々がほとんど集まって学校へ抗議する事態が生じた。

 こういう時は、必ず管理職は行方不明になり良識ある教師が話し合いの前面に追いやられた。

 定時制課程の廃止がすでに京都府教育委員会内部で決められていたと知ったのはそれからしばらくしてからのことだった。

〈つづく〉

 

【細川 汀】
1927年、岡山県に生まれる。京都大学医学部卒業。医学博士。
専攻は労働医学、社会医学、地域医療保険福祉。
大阪市衛生研究所、関西医科大学、京都府向陽保健所、京都市衛生研究所を経て、京都府立大学に勤務。1990年退職。働く人の生命と健康を守る全国センターなどの参与をつとめた。
2020年1月21日、永眠。

※細川汀先生より弊社代表黒川に送られて来た季節の絵手紙の一部。

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