図書出版 文理閣

故細川汀先生の労働安全衛生学遺産を受けつぐため

掲載にあたって 黒川 美富子(文理閣代表)

佐瀬 駿介 (元京都府立山城高校教諭・京都府立桃山高校教諭・京都府立鴨沂高校常勤教諭)

【細川 汀先生の文理閣刊行物】

かけがえのない生命よ
細川 汀 著

【増補新版】
教職員のための労働衛生安全入門
細川 汀・垰田和史 共著
健康で安全に働くための基礎
細川 汀 編著

細川汀先生の
労働安全衛生学遺産を受けつぐために


 2020年1月21日、細川汀先生が亡くなられました。
 心からの哀悼の意を捧げます。

 先生は医学博士として、労働医学・社会医学・地域保健医療福祉など多方面の、実践・研究に取り組まれ、膨大な著作を発表されましたが、私ども文理閣の、
 『健康で安全に働くための基礎―ディーセント・ワークの実現のために』(2010年)
が最後の編著(北川睦彦・伍賀一道・近藤雄二・中迫勝・八田武志)になりました。
その他、
 『健康で安全に働く ―これから働く君たちに』編著(1994年)
 『教職員のための労働安全衛生入門』増補新版 垰田和史氏と共著(1997年)
 『かけがえのない生命よ-労災職業病・日本縦断』単著(1999年)
『頸頚腕障害の医療と快復』復刻版 畑中生稔氏と編著(2002年)
など、どの著作にも、働く人々の健康と生命を守る、科学的メッセージが込められています。先生はたびたび文理閣に来られ、熱心に、関係図書の出版を切望されました。
 残念ながら、いまだに「職業病」や「過労死」のない社会には至っていません。
 先生が生涯、発し続けられたメッセージを、今一度振り返り、その遺産継承のために、かつて、先生の『健康で安全に働く ―これから働く君たちに』を高校生に教えた経験を、佐瀬俊介さんから寄稿いただきました。
 細川先生のメッセージ、平和と健康、働く人々の生きがいのある社会を願い、ここに掲載し、先生への感謝と致します。(文理閣 代表者 黒川美富子)
 『かけがえのない生命』出版のカバー写真撮影のとき。旧日本たばこ会館前にて(撮影 豆塚 猛)

 

故細川汀先生の労働安全衛生遺産を受けつぐために

佐瀬駿介
(京都府立山城高校教諭・京都府立桃山高校教諭・京都府立鴨沂高校常勤教諭・京都府立桃山高校講師退職京都府立高等学校労働安全衛生対策委員会創設・京都府立高等学校労働安全衛生対策委員会委員長なども歴任)

第1章 故細川汀先生の労働安全衛生遺産をすべての人々の中に

 DECENT WORKの実現を当面は日本語訳しない

 DECENT WORKの実現という ILO(国際労働機関)が打ち出した国際的方向の日本語訳をしないままで、『健康で安全に働く これから働く君たちに(改訂版)』のサブタイトルに入れようと言うことで最終的に一致して出版された本が、細川汀先生最後の出版物となった。

細川汀先生は長い闘病生活を経て 2020年1月21日に亡くなられたからである。

 DECENT WORKの実現

 21世紀に向けてILOのファン・ソマビア事務局長は、 DECENT WORKの実現を提案し、ILO総会で承認されたが、 DECENT WORKとは、

・ILOが将来追い求める明確な目標である

・DECENT WORKの実現は、すべての人がそれなりの仕事に就き、家庭を持ち、子供をつくり、年金がもらえて老後も安心して生活することができるという意味

・実現は難しいだろうが、それを達成するのがILOの課題でもあり、責任でもある

とされた。

 そして、 DECENT WORKの実現は、今日のILOの主要な目標は、自由、公平、安全、そして人間としての尊厳を条件として、女性や男性に DECENT WORKで生産的な仕事を確保すること、としている。

アルファベット表記と日本語表記がある意味意図的に混在させられいる政府の意図

 ところが、 ILO東京支局は DECENT WORKの言葉を日本語訳する時に、適切な言葉がみつかりにくかったことを当初述べていた。

 それは、英語訳から日本の概念をあてはめようとするからであり、日本ですでに概念化されていないことを承知していなかったからである。

 現在は、働きがいのある労働などと訳されているが、アルファベット表記と日本語表記がある意味意図的に混在させられ人々に理解不能な状況が作り出されている。

 そのことを見通して細川汀先生と敢えて無理に日本語訳をしないで、後世の人々に一番適切な日本語にしてもらおうではないかという意味で一致したのである。

 改訂版以前の「健康で安全に働くこれから働く君たちに」でも WHOの健康の定義の外務省訳を細川汀先生は鋭く指摘されていたこともあるが、何よりも細川汀先生が専門にしたとされる労働安全衛生研究の目指したものがこの DECENT WORKに籠められていた。

 英語が分からないと決めつけられている生徒が解る英語訳

 ILOの DECENT WORKは、 2002年 4月29日に教科書「健康で安全に働くこれから働く君たちに」の副教材として作成し、高校で生徒たちに教えていた。

 細川汀先生が書かれた「健康で安全に働くこれから働く君たちに」には、当時、外務省が WHOの健康の定義 Health is a state of complete physical, mental and social well -being and not merely the absence of disease or infirmityの well-beingを福祉と訳していたことに細川汀先生は厳しく批判していた。

 健康とはなにかという国際的提起が日本語訳にされると本来の意味とはまったく異り、理解出来ないものにさせれれている事への重大な警鐘と批判であった。

 教えていた高校生は、英語が嫌いという生徒たちがほとんどであったが、なぜか、細川汀先生のwell-beingを福祉と訳す問題には理解を示した。

 現在、カタカナ表記や意味不明な日本語が横行、乱立する中で日本の人々が生きるための基礎知識として持つべきことへ細川汀先生からの警鐘であったのだとも思える。

第2章 高校で労働安全衛生を教えるまでの序章

 高校の定時制課程で「健康で安全に働くこれから働く君たちに」を教科書で教えるに至った経過とそれへの圧力を撥ね除け、生徒たちが細川汀先生が親しみを持って迎え入れられたのには教育実践上の多彩で長期にわたる歴史がある。だが、経過をほんの断面だけを今回は紹介して細川汀先生への哀悼の意を表したい。

 鮮血が飛び散った生徒の傷口と教育

 鷹峯にむかう昔からの街道沿いに家々が立ち並んでいた。その中でも一軒だけ街道より低く建てられる家を訪ねた。

 お母さんと生徒の三人で学校のことや生活のことを忌憚なく話すためだった。言えば教師の家庭訪問であったが、その方法は少し違っていた。

 話し合ったことを記録してクラス新聞に掲載することを了解の元に家庭訪問したからである。もちろん事前・事後も生徒と家族の了解もとった。無理強いはしないで、希望者から家庭訪問した 。
 はじめはほとんどの生徒は消極的だった。だが、クラス新聞の発行にともない何度もクラス新聞を読み大切に持ち帰り家族と読み合い話し合うことが増えていたらしく、次々と生徒から家庭訪問を希望する生徒が増えた。
 うれしかったのは、お互のことをほとんど知ろうとしない生徒が、お互いを理解し合いはじめクラスに和やかな雰囲気が流れるようになったことであった。

 高校の定時制には、人には言えない苦しみや辛さを数え切れないほど背負い、学習の機会がなかったことがそれを加速させ沈黙が唯一の友である生徒は非常に多かった。

 義務教育を受けたとはとても言えない生徒たちに、高校の定時制 4年間で何が出来るのかを摸索しながら手作りクラス新聞も発行し続けていた。

 ぼくの家にも来てくれるのと一言

 クラスでも人一倍沈黙を友とする生徒から、ぼくの家にも来てくれるの、という一言に応えて鷹峯に向かう街道沿いの家を訪ねた。

 定時制の授業が終わってからの午後 10時過ぎの家庭訪問。にもかかわらずお母さんは大歓迎してくれ、わが子の育ちを話され今の学校の様子を聞かれた。ぼくの家にも来てくれるの、と言った生徒は何も話さなかった。

 帰り際、お母さんが戸惑いながら「先生、聞いてください。この子はこんな汚い家に住むのは嫌だと言うんです。」と話を切り出された。

 聞けば、家は代々続く油屋だったので壁は厚くして防火に備え火災の延焼を防ぐために街道より低く造られている。天井や壁は、菜種油を燃やしたすすで黒々としているが、それは我が家が油屋だった証なのだ熱っぽく語られた。
 日本の歴史がその家には塗り込められていたのである。

 天井や柱、壁や昔売られていたであろう油が置かれていた土間を見て改めてその家の歴史の重みを感じた。「お母さん、すごく歴史のある大切な家ですね。」と言って生徒に聞くと「汚い」という一言だけが返ってきた。

 それから数ヶ月経って、ある病院から電話がかかりその生徒がしばらく学校に通えないという連絡があった。

 痛みを堪える以上に感じた優しさ

 飛ぶようにしてその病院に行くと生徒は腕の包帯を外して深々と長く切れた傷を見せてくれた。刀で切りつけられた傷口は縫われていたが赤く染まった肉は縫われた糸から盛り上がってはみ出していた。今だ忘れられない。

 何度か、病院を訪問。生徒は退院して登校してきた状況を聞くと「先生、よかったわ。入院出来て」と言う。
痛みを堪えていたが、その痛みを感じないほど優しい看護婦さんがいた。

 口下手な自分だが、お礼を言いつつ少しづつ話せて、退院してからその看護婦さんと友だちになり、交際がはじまった。
 こんな僕にも女の友だちが出来たと満面の笑みを浮かべ、ザックリ切れた傷跡を見せたが聞いてもうわの空だった 。

 赤く染まった長い傷口。このままでいいのだろうかと思い悩んだ。彼は有名な食品会社でアルバイトとして働いていた。身体に切り込まれた傷跡より嬉しいことが舞い込んだかも知れないが、定時制で学ぶ生徒が多かれ少なかれこのような職場で働き、傷ついている現実は見過ごせない、なにか出来ないだろうかという思いだけが渦巻いた。

労働基準を生徒に知らせともに学ばないと

 考えあぐねた末にたどり着いたが、労働基準を生徒に知らせともに学ぶということであった。
 1970年代初頭の労働基準法は、文字すら十分読めない生徒も含めて教えられるほど今の改悪労働基準法よりはるかに分かりやすく、教えやすかった。

 いま思い出せば、あのこと以降から労働安全衛生を教えるまでの道程は必然の結果だろうと思える。

第3章 切り捨てられていたとも言える生徒の高校での教育

 1970年代初頭の高校の定時制には、就学出来ないかっただけでなく障害や病気の生徒が入学していた。
 さらに中学校時代暴力や「非行」を重ねた生徒たちも入学していたので入学式は騒然とした爆音の中ではじまった。体育館の横を「暴走族」が仲間の入学を「祝った儀式」をしたからである。生徒の大半は怯え、今後の高校通学に不安を覚え保護者はこれが高校か、と教師に詰め寄ることがしばしばであった。

 高校入試は 1次試験と 2次試験があり、 2次試験は 3月末であったため他の高校には行けなかった、というよりは他の高校で受け入れを拒否された不合格としてなった生徒が入学していた。

 当時から1990年代まで京都府立高校の定時制課程では、定時制課程の募集定員通りに入学させず、定員内の受験があっても生徒を「選別」して不合格にするということがまかり通っていた。表向きは、生徒たちが学び得る最後の高校は定時制であると言い続けた教師たちも、定員内の合格に反対していたのである、その言い訳は、入学しても高校での教育についていけないからともいう理由だった。

 だが、募集定員を公募している以上は、募集定員内で生徒を受け入れるのが当然であったが、それら正当な考えは打ち消されていた。

 高校で学びたくて出願しているにもかかわらず就学出来ない、障害や病気、暴力や「非行」を重ねた生徒たちを不合格にして就学させないのは簡単であったが、そうではなく希望する生徒を受け入れて教育をすすめる。天を突くような事件と苦労があった時期に「鮮血が飛び散った生徒の傷口」を見て、定時制の教育の在り方をもう一度基本から考えさざるを得ないと思った。

 高校を退学させられたほうが、高校に来なくてもいい、親も学校に行けと口うるさクいわなくなると考える生徒は、授業を聞くどころか早く終われと騒ぎだし椅子や机を投げる。それを恐れた生徒は登校しなくなるという日々もあった。
 ここで怯んでは高校に入学させた生徒に教育をしたことにならない。暴力行為は絶対許さないで時には退学させることもある。しかし、どうすればいいのかと思い悩んでいた時に、ベテランの英語の先生が「 1年間授業をしていても、今日は生徒も分かったし自分も授業をやり終えたと思える日は一日だけぐらい。」と言って自分の授業をまるごと印刷されて教師に配布された。 TV番組の中にある英語と思える部分に線を入れることから授業をはじめ少しずつ少しずつ英語を学べるようにする学習内容だった。

 「ある時、校門をたむろしている生徒たちが話している声が聞こえてきたんです。おまえなあ、あの英語の先生の授業をサボるようではこの学校に来た意味はないぞ、と。それを聞いて次第に確信が持てはじめました。」と話された。

 教師の間にしばしの沈黙が流れたが、各々思い考えて授業の改革がはじまった。そこには、こうしなければならないとか、こうでないといけないとか、ということはまったくなかった。
 少しずつ少しずつであるが、「あ、解った。こいうことなんや」と授業を理解し、楽しみにする生徒が増えはじめた。学校は楽しい場所なのだということを生徒が教師に教えてくれた合図だった。

第4章 人はうまれながらすべての人がその人自身の人権を持っている

 生徒が仕事で怪我したり、辛い思いをしないようにするのにはどうするのかという授業の内容はまだ確立していなかった。労働関係の本を取り寄せ片っ端から読んで理解しようと努めた。その時、細川汀先生の著作も読んでいたのだが注視して深く読むことはなかった。

 政治経済の憲法を中心に授業をはじめたが、特に基本的人権の項は時間をとれる学習をした。基本的人権、人はうまれながらすべての人がその人自身の人権を持っているということを具体的事例や判例を説明した。ところが、愕いた声が生徒たちから湧き上がった。「先生、俺にも基本的人権があるのか。こいつにも、あいつにも基本的人権があるのか」といつも暴れる生徒からの質問だった。「当然ある、きみにも、あなたにも、みんなにもある、」と答えると授業は終止がつかなくなるほど生徒の声が飛び交った。恐る恐るいつも下を向いているだけの生徒が手をあげた。「僕も?」「当然君も」と言うと目を見開いたままになった。

 それからの授業は、騒ぐ生徒に注意をすると「先生、俺にも基本的人権があるの忘れているんじゃないか」と笑い転げた。

 多くの時間が過ぎてから解ってきたことは、生徒たちは、人権教育、と小学校や中学校で長時間教えられ続けたが、それは自分以外の人の人権を考える、理解するということであり、自分にも人権があるというは教えられていなかったということであった。
 基本的人権を知り、学ぶことは生徒たちがこれから生きる上で絶対欠かせないと痛感した。
労働条件、労働条件、賃金と授業を進めていくと暴走族のボスであって大けがをして後遺症が残り苦しんでいる生徒が突然手をあげた。

 「先生は、オレらの給料のことを言うけれど、じゃあ、先生は月いくらもらっているんや」と聞く、正直に答えるとその生徒は笑い転げて「ウソやろ、オレの十分の一の給料や、ようそれでがまんしているなぁ」と言われて生徒たちの月収を聞くと教師の初任給よりはるかに多かった。
 定時制課程には、 10代から 50代の生徒もいた。だが、聞けば聞くほど教師の給料より高かった。当時は。
「ようそれでがまんしているなぁ」と生徒に言われて改めて教師の労働条件を実践的に学ばねばと思って教職員組合の執行委員に立候補した。

第5章 教職員組合執行委員会の大半は労働基準法を理解していない

 自ら労働条件や賃金や労働者の権利を空論だけでなく実践的に会得しなければ、生徒に笑われてもやむを得ないという決意で臨んだ教職員組合の役員立候補。

 当選して執行委員会に出て愕くばかりのことがありすぎた。あえて、二つだけ書いておく。

 生理休暇をとらないことを評価する婦人部長

 執行委員会で婦人部長(当時の名称)が、京都は生理休暇全国最下位。それほど教育に熱心に取り組んでいると報告があった。
 準看護婦で定時制で学んでいる生徒が生理の時の苦しさを訴えていたことを思い出して「生理休暇は、労基法上でも認められているし、何よりも母性保護から考えても取得すべきではないか。全国最下位と言うことは、それだけ母性保護が守られていないという証ではないか。」と発言した。

 すると、生理休暇で学校を休めば授業が休みになる、どうするの、とてもじゃないが休めないという意見が返ってきた。そこで、婦人部長は、教育委員会代表か、とまで言ったので終止がつかなくなった。
 結局、生理休暇取得問題は、検討課題とされその後執行委員会で論議されることはなかった。

 その後論議になったのは、風疹予防の問題であった。

 結婚している女性教員だけに風疹予防接種に反対

 京都で風疹が流行し、少なくない学校で学級閉鎖が相次いだ。女性教師から風疹がうつると胎児などに重大な問題が生じる恐れがあるため教職員組合として取り組んでほしいという切実な要求が出されてきた。

 婦人部長は、この要求を受けて結婚している女性教師は公費で予防接種が受けられるようにと教育委員会と概略的に一致して、執行委員会の決定を受けて教育委員会に報告、実施させると言った。

 なぜ、結婚している女性教師に限定するのか、と問うと、当然でしょう結婚、妊娠ということになるから、と言われた。

 結婚していなくても妊娠する場合があるし、教師だけに限定して学校職員を除外するのもおかしい。
 予防接種は、すべての教職員が受けることが出来るようにすべきだと主張したが婦人部長は結婚が前提と言って婦人部の考えに反対するのかと激しく言った。執行委員会では、なんとか仲を取り持とうとする意見も出されたが決して怯まなかった。

 1065年、沖縄における風疹の流行と産まれた子どもたちの状況など縷々発言した。特に妊娠初期。風疹に罹患したことが解らないままの場合が多い。予防接種を嫌がる教職員がいるかも知れないが、希望する教職員全員が受けられるようにすべきだと言い続けた。
 結果的に、希望する教職員全員が受けられるように教育委員会と再交渉し、教育委員会もそれを受け入れた。

 生徒たちの賃金未払い会社倒産、回顧問題などに取り組んだ労働組合

 これらの論議は、多々あったが労働基準を実践的に学ぶということは教職員組合では、無理なのかと思っていた。ところが教職員組合から総評副議長にでていた副委員長から民間労働組合の争議に加わるようにとの話があり、各地域の労働争議の支援に加わることになった。そこで学んだこと、出会ったのは定時制生徒の労働と関連する労働組合の人々だった。

 総評で出会ったそれぞれの職域の労働組合の人々は、生徒たちの賃金未払い、会社倒産、解雇問題など数多く生徒の相談を詳細に聞き、生徒と共に行動してくれた。
 そのひとつひとつは、今も胸に細かく刻み込まれている。

第6章 郵便配達と振動病と細川汀先生の論文との出会い

 労働条件、労働条件、賃金と授業を進める中で特に熱心な生徒がいた。
 もう 30歳を超えていたが職業を聞くと郵便配達をしているとのことだった。そこで、郵便配達のバイクのハンドルやクッション等が替えられたことを知っているか、と聞くとよく知っているとの返事。

 郵便配達の労働とバイクと細川汀先生と出会い

 数え切れない本を読んだ中に、たしか郵便配達の労働とバイクのことが書いてあったと思ったからだ。

 生徒は、「組合に行って資料があるか聞いて、あれば借りてくる」と返事。後日、分厚い資料と協定書を持ってきてくれた。この資料が細川汀先生との出逢いだった。

 私が特に愕いたのは、細川汀先生のバイク郵便配達の調査方法と分析であった。

 社会変化と労働形態と健康の縦横の調査と改善提案
 
 細川汀先生は記述していた。

 郵政省の配達用乗物が長く国民に親しまれてきた自転車からバイク(自動二輪および原動機付自転車)に変つてきたのは , 1960年以降。
 通常郵便配達にも使用されるようになったとして、バイクの排気量の変化と郵便物の激増を分析。郵政省の配達作業が自転車からバイクに変つたのは高度経済成長に伴って激增した郵便物を人員を増やすことなく効率的に処理するための機械化のせいと考えられる。

 と分析していた。すなわち社会変化と経済状況とその量と質からバイク郵便労働者の背景を分析していることであった。

 社会医学とは何かを根底から学べたパイク乗務作業者調査報告

 医者は医学的という概念を超えて社会全体から労働者の健康をとらえようとする視点は、それまで読んだ労働関係の本に見いだすことは出来なかった。

 さらにその調査は、全国のパイク乗務作業者の実数は。 7~8万人と推定されそのうち第一次調査では、釧路、小樽、福島、栃木、東京、北陸、岐阜、奈良、和歌山、大阪、岡山、愛媛、大分の 13地区 16,529名を対象とした。

 とするから大規模調査であったことが解った。

 それまでの数百人か、数十人に対する調査で結論づける各種学会報告を見聞きしてきたが、極めて精度の高い調査方法であった。

 のちに細川汀先生にこの時のことを手紙に書くと、先生としては全容解明したかったという考えが書かれていたのには驚愕した。

 すべての労働者が安全で健康に働くことが出来るよう

 強く記憶に残っているのは、バイク郵便配達の場合、①主として舗装道路②主として凸凹道路③主として①と②を走行した場合の身体に与える状況調査だった。

 資料を持って来てくれた郵便配達の携わる生徒と話し合ったが、彼も②主として凸凹道路を走行することが一番身体にダメージを与えるものだと思っていた。

 だがしかし、舗装道路と凸凹道路を交差に配達する場合に身体に一番ダメージを与えるという調査結果だった。このことがのちにエルゴノミックス( Ergonomic)を学ぶ切っ掛けになった。

 当時もその後も労働組合に加入している生徒は数人だったが、細川汀先生の調査に全面的に協力した全逓信労働組合には感心したし、あらゆる職種職域を調査するにあたって労働者全体を考えている細川汀先生に感銘した。

 当時、私が属していた教職員組合は全逓信労働組合と敵対関係とも言うべき状況にあったからである。
組織や政治などで色分けしないですべての労働者が安全で健康に働くことが出来るようにする。そのことの大切さを脳裏に焼き付けられた。

 現に生徒は、細川汀先生の調査結果に基ずく新型バイクで配達していたし、彼もまた改善された経過を労働組合から教えられていた。

第7章 辛辣な批判と定時制廃止と強制異動の嵐

 1970年代後半前後して、高校の定時制課程には昼働きよる学ぶという生徒たちは次第に少なくなって全日制に入学出来ない生徒が多くなってきた。

 京都府立高校の入学試験は、 1次試験と 2次試験があり全日制は定員の生徒を受け入れていたため、高校では定時制課程が 2次試験が行われていたことは前述している。

 私学高校の入学試験がすべて終わった時期に行われる 2次試験は高校進学の最後の機会であった。試験では、京都府教育委員会が発表した定員通り合格者を出したのは残念ながらほとんど無いという結果であったことも同じく述べてきた。

 高校教育不可能とされた生徒の教育を打ち破った授業内容の創造

 京都府教育委員会が公式に発表した定員がその通りに行われていたかどうかは公式に分かることであったが、残念ながらそれらは暗黙の了解の元に「不合格者」を出して受験生は中学浪人するか、それとも高校進学をあきらめるか、の二者択一を迫られていたのである。

 15の春は泣かせない、と蜷川知事が京都府議会で答弁した話は有名であるが、 15歳の春を泣かせるかどうかは京都府教育委員会の肩にかかっていて京都府教育委員会はそれを実行したとは言えない事実が多くあった。

 京都府立高校の定時制の教師の間では定員通りに合格を決めることへの手厳しい批判、中学校側では定時制高校受験をする生徒を選別して定時制課程を受験。中学校で高校なんて行く価値もないと決めつけられた生徒たちがやって来た。
 それ故、生徒指導や基本となる授業を維持するだけで教職員は大きなエネルギーを裂かなければならなかった。

 その困難を打ち破ったのは、授業内容の創造であったことも述べてきた。

 ところが、 1980年代になって校長の姿勢や教職員異動に理解しがたい動きが強まってくる。

 裏で準備されていた定時制課程の廃止

 校長(当時、校長は全日制および定時制を兼務)は、定時制課程の受験生合格にすべきだ合否決定権は、学校の責任者校長にあるとして教師の意見を退けた。
 また「いわゆる問題を起こしたとされる」教師を強制異動させ、校長に反対する教師を理由もなく異動させた。

 荒れる定時制課程の生徒は、一層荒れた。

 また暴力を振るう生徒を「暴力は表現の一つだ」と主張する教師も増え、それまでの授業の創造的取り組みは波状効果を生みださなくなった。学校内外でのさまざまな騒音、器物破損、理解のあった町内会の人々がほとんど集まって学校へ抗議する事態が生じた。

 こういう時は、必ず管理職は行方不明になり良識ある教師が話し合いの前面に追いやられた。

 定時制課程の廃止がすでに京都府教育委員会内部で決められていたと知ったのはそれからしばらくしてからのことだった。

 定時制課程の廃止が決められていた頃、私は、頸腕障害に罹患していた。
 京都の 頸腕障害では著名な病院で受診していたが、病名告知もなく、受診まで数時間の待合、カルテの行方不明などなど数え切れない問題がありその病院の受診をやめる決意をした。

 病院の隣には有名な釘抜地蔵があり多くの人々が熱心にお参りしている姿を見て、その気持ちは深く分かった。が、医療を受けることだけはあきらめまいと以降各地の病院詣でをすることになる。

チョークを持つのが痛い、黒板の凸凹にチョークを走らせると激痛が襲う。

 一体なぜこんなことになるのだろうかと思い本を読みあさった時に出会ったのが、「畑中生稔・細川汀編著頸肩腕障害の医療と回復」 (1983年 労働経済社)であり、細川汀 編著 健康で安全に働く これから働く君たちに 細川汀 編著(1994年 文理閣)までの約8年間は闘病と学習の連続であり、現在も闘病を続けている。

 その後十数年経って、「畑中生稔・細川汀編著頸肩腕障害の医療と回復」を滋賀医科大学の垰田和史先生が、貴重な本として復刻版を出したいと連絡があった。

 細川汀先生が著者の遺族・著者・出版社に了解を取り付けてくれ、定時制課程で教えた生徒が営む小さな印刷会社で印刷し、文理閣が取り扱ってくれることになるとは病気になっていた時は、夢だに思わなかった。

 「畑中生稔・細川汀編著頸肩腕障害の医療と回復」復刻版をつくりあげる過程は私だけの責任となっていたが、そのひとつひとつの文章に涙が滲んで読めなかった。

 その涙の向こうに多くの人々の涙のあつまりがあり、そのひとつひとつを拾い上げながら文を書き重ねた畑中生稔・細川汀先生たちの思いがズッシリ伝わりつづけた。

 学校は、学べば学ぶほど労働安全衛生がまったく生かされていない場だと痛感した。
 頸腕障害で意識不明の状況の下で異動させられた。
 校長が事前に告げた異動先ではなかったが抵抗力は喪失していた。

 異動先の学校も定時制過程で単位制を翌年に控えて論議されていた。

 第8章 単位制による定時制課程で新たなる挑戦

 単位制高等学校は、今では全国各地で広がっている。京都市内を歩いていてもビルの一角に○○高校と書かれているが校舎らしきおのもグランドも見当たらない。
 校舎のない学校。これが単位制高等学校であった。

 単位制移行の論議と問題の中へ

 文部科学省は、1888年「自分の学習計画に基づいて、自分の興味、関心等に応じた科目を選択し学習できること。」「学年の区分がなく、自分のペースで学習に取り組むことができること。」として、「単位制高等学校は、学年による教育課程の区分を設けず、決められた単位を修得すれば卒業が認められる高等学校です。1988(昭和63)年度から定時制・通信制課程において導入され、1993(平成5)年度からは全日制課程においても設置が可能となっています。」とした。

 しかし、教育財政や教員配置は従来のままであった。
 多くの教師や保護者や入学生は「自分の学習計画に基づいて、自分の興味、関心等に応じた科目を選択し学習できること」に魅力を感じていた。
 「自分の興味、関心等に応じた科目を選択し学習できる」項目は、好きでもない授業を受けなくてもいいという魅力を感じていたらしい。

 異動した学校の定時制課程では、単位制導入を前提に論議がなされていた。

 学校を突きくずす単位制に抗して

 文部科学省が。単位制実施を定時制・通信制課程と全日制課程に5年間のずれを置いたのは明白だった。
 定時制での単位制導入を足がかりに、全日制の進学をさらに一層促進させようとする露骨な意図は明らかだった。
 全日制課程では手厚い財政措置をする。
 1,2年生で必須科目等卒業に必要な単位を履修・習得させて3年生は大学進学等に備える必要な授業をするというものであった。実施された学校では豊富な教員配置と共にそれまでの6時間授業を7時間、8時間と授業時間を増やした。

 一方、単位制実施した定時制・通信制課程では、「柔軟な単位認定」という名のもとに家事をしていれば「家庭一般」を履修したとして単位認定するなど学校教育の概念を突きくずした。
 今日、ビルの一角に△△高校という名の高校が乱立しているが、それは単位制という「マジック」で事実上の公的高校教育機会をなくすものであると言える。この問題は、ほとんど知らず、柔軟で変幻自在な学習形態と学校を評価する動きが加速している。

 高校教育の財政縮減、定時制課程の教育の廃止という国・行政の流れの中でそれに抗い教育保障をすすめるということは非常に難しいことであった。
 高校教育の均等化が打ち崩される中で、高校生に必要な教育をどのように創造するのかが求められていた。

 第9章 日本で初めて労働基準・労働安全衛生を系統的に学ぶ教科の創設

 定時制課程で単位制を導入しても教員も教育整備も行われないという現実がありながらも、単位制の「自分の学習計画に基づいて、自分の興味、関心等に応じた科目を選択し学習できる」などを教育委員会や管理職は固持した。

 以上のこともあって必須科目を除いて生徒たちが選択出来る教科枠は限られていた。
 Aという選択枠に10の選択教科を置き、Bという選択枠に5の選択枠を置いたとしても教員補充はない。とても時間割(カリキュラム編成)が作れなかった状況にあった。

  そればかりか、教師はそれまで帯状でない細切れの教科を持たざるを得なくなり、教科教育の準備も合わせて教科内容が希薄になる心配もあった。

 さらに選択講座枠の中である特定の教科を多くの生徒が選択した場合、他の教科は受講生徒が数人もしくはゼロとなる問題もあった。

 第10章 日本最初の労働基準・労働安全衛生を学ぶ教科を申請

 選択教科に学校設定科目があることが、単位制を詳細に調べる中で判明した。
 学校が計画し、教育委員会がそれを承認すればそれを教科として選択教科の枠に入れることが可能であると教科である。

 そこで、公民演習として労働基準を学ぶ、公民研究として労働安全衛生を学ぶ教科を考え、教育委員会申請を作成することになった。
 この教科には、文部省指定の教科書以外の教科書が必要であり、ある本を選定し、それを教科書として申請し、教育委員会の承認を得なければならないというシステムだった。

 そこで公民演習の教科書は大学の先生が書いた労働法(労働災害補償など具体的に書かれていた)、公民研究の教科書は細川汀先生の『健康で安全に働く』として申請した。

 ところが、公民演習の労働法は、定時制生徒には難しすぎるとして再考・却下がなされた。それを主に教育委員会の中で担当したのが前任校の定時制で共に働いた教師であった。即時再考申請した。が、認められないという結果だけしか返ってこなかった。

 とにもかくにも細川汀先生の『健康で安全に働く』が教科書として2年後の単位制導入に伴って開講出来ることとなった。

 このことを当時滋賀医科大学の労働安全衛生学担当の垰田先生に報告・相談すると「今までは、組織労働者や正規労働者へ労働安全衛生教育をする経験はあったが、未組織労働者であらゆる職域で働いている不安定労働の未成年から成人までの労働安全衛生教育の経験はない。ぜひ、その教育の成果を広めてほしい。」と言わた。

 第11章 労働安全衛生教科としての実践と目標 

 高校における労働安全衛生教育は、教科公民研究の時間として確保されたが、毎年度、社会の動向や生徒の動向によって授業内容は変更し続けた。だが、基本的には以下の到達目標を生徒に示し、生徒の意見を聞き、到達目標を改善訂正して授業を行った。 この到達目標は、生徒と共に教師の目標であり、年度末には双方が総括・評価するようにした。

1,はじめに

 現在働いている自分自身も友人や家族や回りの人々も含めて、いきいきと労働ができ、労働することでケガをしたり、死んだしないようにするための学習。
 これらの学習は、本当なら社会人としての自覚を持ている、持ち始めている高校生にしっかり授業で教えれなければなりません。しかし、日本ではごく一部の教科でごく短い時間しか授業で教えられてきませんでした。

 そのため働く人が、「健康で安全に働く」ための基礎的で持続的な「知識」をこの公民研究で学べるようにしました

  この学習は、「日本」でほとんど行われていないものす。そのため公民研究の授業は生徒と教師が共に考え、つくり、実践する授業となります。

 知識があっても生かされなければなんの意味もありません。それは、労働災害で傷ついたり死んだりした人々の「数え切れいほどの多くの声」でもある。

2,到達目標

・テキスト「健康で安全に働く」が十分理解でき、それが現実の労働の場面で生かせる ようになる。知識を応用する力を形成する。
・労働で、ケガをしたり、病気になったり、死んだときに多くの場合、責任がごまかされたりします。そういった時の、うそ、ごまかし、を見ぬく考えを持ち、自分や他の人を守る。
・近い将来、労働協約が自分と仲間と共に結べるような知識と行動力がでも持てるようにする。

として、生徒に提起して生徒に到達目標などに対する意見を文章でもとめた。

3, あなたの自己紹介と授業を受ける決意を書いてください。

1)あなたの自己紹介・知っておいて欲しいこと。
2)今の世の中で仕事をしている人々や自分を見ていて、矛盾や疑問に思うこと。
3)どんなことを授業で教えてほしいか。                     
4)先生の「労働」に対する疑問、質問、感想。

4,生徒の意見や要求などは、毎時間の授業で問いや各設問でとらえるように工夫をした。
 生徒たちは、最初からあらゆる設問を文章で応えることに激しい抵抗を示した。

 文章でのやりとりがしたことがなく、たとえ文章で書いたとしてもよくても「単語」の羅列しかかけない生徒にとっては文章を綴るということはとても出来ないことであり、それは国語の授業ではないかという思い込みがあった

 しかし、教科書「健康で安全に働く」とプリント公民研究と教師の説明を聞きながら、それに対する自分の意見を書くことは、生徒たちが気づかない間に自己表現や問題解決能力を可能にしていくことであった。

 授業で聞いていてもその場、その場で流される中で文字を綴ることで生徒なりの考えを持ち、それを定着させるという教師の思いもあった。

 文章で応える問いは、最初何も書かれていないことがほとんどであった。しかし、前回のプリント公民研究と新しいプリント公民研究を毎授業ごとに繰り返す中で二文字、三文字と文字数が増え、学年末にはほとんどの生徒が文章による解答を書き綴るようになっていった。

 プリントの応えは文章でへのブーイングとある生徒の応え

 ある障害児学級に在籍していた生徒は、当初の授業ではプリントに一文字も書けなかった。
 仕事は小さな鉄工所で働き、危険と隣り合わせだったが「おばさんたちがいろいろと手伝ってくれはる。」「昼休みのお話しの時が一番楽しい。」と言っていた。
 ある時、プリントをもう一枚欲しいと言ってきた。そのまま渡すと嬉しそうにお礼を言う。

  それから以降、毎時間プリントを多めに渡したが、プリントに書き込む文字が次第に増えはじめ的確な答えが書かれていることが多くなった。そして、文字数の量の変化で生徒のストレスの増減が解るまでになった。

 ある時、放課後午後10時前の教室でひとりで机に向かい合ってプリントを綴っている姿を見て話しかけてみた。

 一枚目のプリントに自分が書いて教師から返されたプリント(コメントは必ずつけていた)を元に二枚目のプリントにそれをもう一度書き写して、自分なりの考えを書き込んでいた。
 さらにノートにそれを何度も何度も書き写していた。

 「すぐ忘れるので何度も書いているんで」という生徒は笑顔に満ちていた。

 名前は出さないし知らせない
 このような応えもあるとみんなに知らせてもいいか

 ある時、君の応えを名前は出さないし知らせないから、このような応えもあるとみんなに知らせてもいいか、と尋ねてみたら黙ってうなずいた。

 文章で書けるか、こんなの国語や、しんどいどう書けばよいのや、と言い続ける生徒に「このように応えている生徒がいるので参考に」と黙ってうなずいた生徒の答をそのまま授業のプリントに載せてたものを見せた。

 「ウソやろ、こんなん生徒が書けるわけない」
 「すごいなぁ、こんな風に書くの」
と次々と生徒から感嘆の声があがった。書いた本人は、黙って下を向いて恥ずかしそうにしていた。
 このことは、書いて応える、他の生徒の考えを聞く、と自分も解る、という連鎖が起こり授業中の質問も多くなった。このことが、他の生徒の質問意見を聞いた生徒が理解を深めるという相乗効果が現れた。
 黙ってうなずいた生徒は、それからますます学習し、次第に友だちと話し合うようになり、友だちに自分の意見や感想も言えるようになっていった。

 教師もプリントに書かれた生徒の意見や相談事や悩みを欠かすことなく読み、それを基にプリントを精査した。また生徒が書いた意見はすべて記録して残しておいた。

 黙ってうなずいた生徒が働いていた小さな鉄工所は、数年後閉鎖され今はマンションが建てられている。  

 第12章 学年末に生徒の感想と意見を聞き次年度の労働安全衛生教育目標を考える

 毎年の学年末には、授業の主な項目を挙げて次のような質問をし、次年度の授業の在り方と共に生徒たちの到達点を考えた。 以下はある年度の質問項目である。

 以下の項目は、公民研究の授業で学んだことです。授業で学んで「やく」に立つ・「やく」に立ったと思ったものに○、そこそこ「やく」に立ったと思うものに△、「やく」に立たないと思ったものに×、日常生活で友人や家族や職場で話したことがあったりなどなど学んだことが回りの人々に「やく」に立ったと思われるものに◎を書いてください。また○△×◎と書いた理由や学習の内容や自分が学んだと思ったことを‥‥‥に書いてください。理由が書かれていないとダメです。           

番号  授業で学んだこと     ◎○△×

1 卒業した生徒の労働と労働災害の経験の手記
2 高所作業とはなにか、転落事故の危険と対策
3 定時制女子生徒が受けたプレス事故の悲しみとその教訓
4 まちがいをするのが人間(ミスと不注意論)
5 健康とはどんなこと? ILO・WHOの考え
6 疲労とストレスとうつ病になる不安と危険
7 過労死・過労自殺とはなにか、その裁判
8 労働災害・労災保険とその補償・手続き
9 労働災害が起きたときの会社の動きと労災申請
10 労働で安全に働くための安全対策とはどんなこと
11 身体の動きと労働による身体の故障
12 立ったままの仕事(立ち作業)と健康
13 コンピュータ労働とは、その問題と改善方法
14 仕事場の照明・騒音・温度・換気などの仕事場における環境をよくすることについて
15 有害物質が身体に入る労働とその危険について
16 粉じんとはなにか、アスベストの危険と死亡
17 労働と健康診断とその後の仕事の改善について
18 生徒が取り組んだ仕事場における安全衛生委員会のとり組みと卒業生からの伝言
19 労働基準監督署・労働基準監督官のしごと
20 仕事をしていて会社が無理なことや法律に違反しているときにはどうしたらいいか。

などの項目であったが、毎年、「まちがいをするのが人間(ミスと不注意論)」の授業に生徒からの高い評価が寄せられた。

 教科書 健康で安全に働くでは、まちがいをするのが人間(ミスと不注意論)は非常に簡素に書かれていたが生徒たちの関心はそこに集中していた。
 「まちがいをするのが人間」を教師自身が充分学習する必要があった。

 細川汀先生に問い、紹介してもらった労働科学論を基に学習した。特にエルゴミックスergonomicsは、授業に多くの示唆を与えてくれた。エルゴミックスergonomicsはギリシアに由来することばである。
 日本では、人間工学と訳されているがEU諸国の例を調べると人間のための工学と言うことが適切ではないかと考えた。

 第13章 まちがいをするのが人間 ミスと不注意論の授業を重視

 3月1日卒業式。卒業証書を渡す校長の手が停まった。証書を渡す生徒がいなくなっていたからである。一瞬のざわめきだけで卒業式は終わり卒業証書は、担任の机に置かれたままになっていた。卒業式直前まで生徒がいたのになぜだろうと思ったが、みんなは思い思いに食事会などに行きだれもひとりの生徒のことに関心がむかなかった。

 担任の了解を得て卒業証書を持って生徒を訪ねた。

 生徒は、みんなの楽しそうな顔を見るだけで満足でそのまま帰宅したと語った。

 だが、その話の中で愕くことが生徒の身に降りかかっていたことを知ってその事を聞かせて欲しいと言った。すると書いて届けるからと言われて届けられたのが次の文であった。

 16歳の春 プレスによる切断事故とその苦しみと生徒への伝言

 それは、高校1年生の16歳の時のことでした。当時私は、ある工場貸倉庫のアルバイトをしていましたが、その貸倉庫の社長から、貸倉庫借りて仕事をしている別の会社の作業をするように言われました。
 その作業は、プレスの型どりでした。その頃は、地球の環境の問題が騒がれ、従来ならばいろいろな製品が「発泡スチロールで包装」されていたものが難しくなり、「ダンボールで製品で包装」するようになっていました。

 私は、プレス機にダンボールシートを置いて左、右のボタンを押すとプレス機が降りる。 ダンボールに型押しされる型押しされたダンボールはプレス機についたまま持ち上がる ので、それをはがしという「工程」を終え、また左、右のボタンを押して……という作業を繰り返していました。

 ところが忘れもしない3月15日、型押しされたダンボールをはがしている最中に、左・右のボタンを「押さない」のに、プレス機が誤動作して「二度落ち」してきたのです。
 そのため両手がプレス機にはさまれ、痛みを通り越して涙が止まらずしびれ感だけが残っていました。
 みんながあわてて集って来てくれました。が、左手は出血して筋肉が飛び出し、右手はパンパンに腫れていました。
 私はただただ泣くだけだったそうです。

 救急車。病院。手術。時間はめまぐるしく動き、仕事をしていたおばちゃん達が泣きながら様子を見に来てくれました。「ごめんなぁー」とみんなは泣きながら言う。
 私には意味もよく分からないまま「もらい泣き」しているだけでした。

 事故当日の手術。
 10日後の手術、手術は2回続きましたが、私は「飛び出した私の筋肉を切って、ぬえばいいんだ」と単純に考えていました。
 でも、左手はベッドに固定され、右手がパンパンに腫れた状況のままの日々はつらく、心細さだけが残っているだけでの20間の入院生活。
 係長や同じ仕事をしていたおばさん達は、毎日のように見舞ってくれ、うれしかった。でも、工場貸倉庫やF会社の社長が来たのは、一度来たきり。
 しかも「仕事になれてきて、寝ていたんじゃないか」のようなことを言われて、くやしくてむかつきました。
 社長としてはともかく様子を見に来ただけだ、という印象だけでした。

 4月3日退院。10月23日まで通院のリハビリテーション。超音波や指のマッサージをしていましたが、「リハビリを続けてもその効果が見られないということで「治癒(ちゆ」)とされました。

 治癒後、左手に障害が残ったので、労災補償の障害等級14級とされて障害一時年金の給付も受けました。

 会社からは、その労働災害補償の最低限保障。

 障害は軽いけれどもう少し会社の責任を追及できないか、と弁護士に相談に行ったけれど「あなたの場合は、難しい」と言われました。

 私には、「左母指の筋力低下と左2指関節の可動域制限」という障害が残り、ケガをする前は当たり前のように出来ていたことが、当たり前のようでなくなりました。

 ドアのノブが握れない、バイク、車のハンドルが握りにくい、爪を切るのが困難、一定幅以上の物がつかめない、手が疲れやすくコンピューターのキーボードが打ちにくいなどなど……。

 今から思えば、一瞬で手に障害が残ってしまったから、もっと会社に責任をとってもらい、いっぱい保障をもらえばよかったと思います。

 会社は私の事故を軽くとらえていたけれど、私は一生この手とつきあっていかなければならないし、この事故のことを一生忘れることはないのに、会社は、時間とともに事故のことを忘れていると思います。

 私が事故にあった後で係長がプレス機の電源を切って、プレス機を動かしたら、「二度落ち」する誤動作があったとのこと。

 でも、私の事故のあとプレス機の作業方法は改善されることなく、機械も同じで作業も「同じ方法」で行われています。

 私と同じように起きるのかもしれなないのです。

 この生徒の手記は毎年の授業で取りあげた。生徒からの数え切れない感想が出された。同じ高校、同じ定時制で16歳の春。生徒にとってもショックは隠せないでいた。

 生徒の文は、後日、教職員向けの衛生委員会ニュースにも掲載した。

 担任だった教師はもとよりその生徒を教えた教師からはなんの意見も問い合わせもなかった。

 寂しさよりも教職員の労働安全衛生に対する離反した考えでぶちのめされた思いだけが残った。

 第14章 毎夜、細川汀先生に報告し、その後ひとつひとつにアドバイスを受けて授業の展開を再整理

 教科書「教科書安全で健康の働く」に添うようにプリントを作成したが、ある年度では次のような問題を出したりした。プリントは毎年次書き換えた。

 

 危険ならどのように安全にするのか 危険を学ぶのではない

 危険性を学ぶのではなく、危険ならどのように安全にするのか、安心して仕事出来るようにするのか、人間の限界と配慮を合わせて学ぶもので最後には、重要な用語と問題を文章で応えるという授業の展開を考えた

 黒板等使って説明したり、生徒との応答を繰り返した結果、プリントに労働安全衛生用語を繰り返し書き、問題(考察)を書いて提出で授業は終了とした。

 まちがいをするのが人間(ミスと不注意論)は、授業のあらゆる分野でも根底に置いておかないと、すぐ本人の不注意、意識不足という結論に至ることが多かったからである。

 注意すれば、すべてが解決するかのような考えの払拭のためには、危険ならどのように安全にするのか、を生徒と教師がともに考えることは授業の基本であった。

 特に、重労働・危険作業をしている生徒は本人の不注意、意識不足という結論で徹底的に教え込まれていたので繰り返し繰り返し取り組まなければならなかった。

第15章 毎夜細川汀先生に報告し、その後ひとつひとつにアドバイスを受けて授業の展開を再整理

 授業のプリントは、文字数だけで年間52万字を超え。図、写真などは8000点を超えたが、それでも労働安全衛生を網羅することは出来ず、教科書『安全で健康に働く』 のすべてを終えることは出来なかった。

 それは、すでに述べたように細川汀先生の1行の文字は、すべて細川汀先生の文章や論文に裏打ちされていたこともある。

 だがしかし、毎時間生徒から提起される自分の労働現場における状況と問題点があまりにもリアルすぎて、そのことに対応する授業をすすめると他の労働安全衛生に連関し続けたこともある。

 常々生徒に「この教科書を書いた先生は、学校の近くに住んでおられる。君たちの質問には、専門的分野からも答えていただける。このようなことが出来る授業は日本中でここだけだろう。」と言っていた。

 授業の進行に伴い生徒の質問も増えはじめたが、生徒の質問や疑問は授業が終わった11時過ぎに細川汀先生のポストに質問として投函した。
 早くて翌日、遅くても2、3日で細川汀先生からのハガキが来た。
 それらのハガキや手紙は必ず印刷し配布。時にはそれを読み上げたりした。

 生徒は、
「なんで、その先生は俺たちの状況やみんなの状況をよく知っているのや」
「言いたかったことはそうや、えらいことしってはるんやなぁ」
「一度会って、その先生の話を聞きたいわ」 

などの意見が続々と寄せられた。細川先生に再びそのことを伝えると、健康状況がよくなればぜひに、という返事だった。

 その日は、来ることはなく、私も定年を迎えた。

 定年前に生徒の意見や授業の教訓を生かして「健康で安全に働く」の全面改定をすすめることになって、細川汀先生と打ち合わせが連日続いた。
 連日の打ち合わせの内容は、手紙と校正紙のやりとりだけであった。

 私が、細川先生の玄関に入ったのは一度きりだった。

 そのほとんどは、細川汀先生宅の大きなポストを通じてのやりとりだけだった。それが私の学びの場であり、教職員への労働安全衛生を広げる出発点でもあった。

第16章 健康で安全に働くの大改訂と打ち合わせの日々

 教科書として使った細川汀編著『健康で安全に働く これから働く君たちに』は、全面的に書き換えることになって細川汀編著『健康で安全に働くための基礎 ディーセント・ワークの実現のために』として2010年5月に刊行された。

 その主な内容は、1.健康とその役割 2.労働と職業3.仕事の疲れとストレス、その予防と回復4.いのちと健康を守る─安全衛生─5.女性の健康と母性保護6.労働災害・職業病7.働く人間のしくみとはたらき コラム QアンドA

とした。
 本の内容すべてには書かれているこちを裏付ける研究、資料など膨大な資料がある。膨大という文を何度も書いたが、細川汀先生の提示された分量は大量で、しかもすべて整理されていた。難解であっても学習するにつれ理解はかぎりなく広がった。

 冒頭で述べたように細川汀編著『健康で安全に働くための基礎 ディーセント・ワークの実現のために』は、基礎中の基礎として絞り込んだが、ディーセント・ワークとあえてカタカナ表記して未来へ伝承することとなった。

 この本を教科書として授業をすすめたかったが退職後の再任用申し込みに対して教育委員会は、遠隔地で低賃金の場を示し、再任用や時間講師として勤まらない条件を出してきた。
 後に、教育委員会の幹部だった人は「きみの労働安全衛生の取り組みに憎しみを抱く人が居て教育畑で働かないようにしていた。考えはチガウかも知れないが、きみの教職員の労働安全衛生提起はすべての教育関係者が実行すべきものだったと考えている。立場上、教職員組合には言っていないが、〜〜〜の労働安全衛生対策はした。きみの言う通りであった。感謝している。」と話しかけてきた。

 金がないと言いつづけた教育委員会が年度をまたいで労働安全衛生対策のための数え切れない改善を少なくない幹部の提案を受け実施していたのである。
 労働安全衛生に取り組む人に万感の思いを寄せる人はまだまだ少ない。
 敵対視したり排除したりし、傍観したりするが、後になって、労働安全衛生をすすめることの重大さと自分たちに関連することを痛感する人は少なくない。教育委員会の幹部もまたその証言者であった。
 細川汀先生は、若い頃から敵視、排除の憂き目に遭ってきた。それにも関わら必死になって労働安全衛生の大切さを訴え、その壮大な陣地を形成してきた。その砦に掲げられたのは、数多くの書物であった。
 今回改定「健康で安全に働くための基礎  ディーセント・ワークの実現のために細川 汀 編著」を作成するにあたっていくつかのエピソードも書き加えた。

 そのひとつがKAROUSIである。
 もはや国際語になってしまったこの用語をめぐって、過労死をなくすことに傾注するのではなく、誰が過労死の名付け親か、などのことが一時期論議された。
 細川汀先生に聞くと、過労死の初版本は府立大学に行こうとした時に京都府副知事の猛反対があり装幀に自分の名前を出さなかった。その後、府立大学に行けたので重版の時に自分の名を出したと言われた。過労死という本を出すだけでも圧力が加わった時期と復活の意味で装幀の違いを「健康で安全に働くための基礎  ディーセント・ワークの実現のために細川 汀 編著」に載せた。
 それに連帯して本の装幀の持つ重みを考えた。夜学で学んだプロのデザイナーにお願いして本の内容に相応しい装丁のデザインをおねがいした。
 八つのデザイン案が出されてきたが、どれも素晴らしく、本の内容をストレートに美しく表現したものであった。
 迷いに迷って一つを選び、細川汀編著『健康で安全に働くための基礎 ディーセント・ワークの実現のために』は世に放たれた。

 第17章細川汀編著『健康で安全に働くための基礎 ディーセント・ワークの実現のために』の未来

 細川汀編著『健康で安全に働くための基礎 ディーセント・ワークの実現のために』の感想を広範な人々から充分聞くこともなく細川汀先生は亡くなられた。
 が、それを前後して世界中で新型コロナウイルスの蔓延と多くの人々のいのちと健康が破壊され「第3次世界大戦とも例えられる様相」が醸し出された。それを悪用する巨大な利権も渦巻き、世界中の人々のいのちと健康を守る闘いがすすめられている。

 何十年も前から公衆衛生の重要性とそれが取り崩されてきていることへ拳を上げて論文を書かれた細川汀先生は、今日の事態をどう書かれるだろうかと思うことがある。
 だが、明らかに誤りなのだ。

 細川汀先生も遺志を受け継ぎ、ヒューマニズムと平和のペンで書き綴ることは、私たちであり、後世の人々なのである。

 

 



 

 

【細川 汀】
1927年、岡山県に生まれる。京都大学医学部卒業。医学博士。
専攻は労働医学、社会医学、地域医療保険福祉。
大阪市衛生研究所、関西医科大学、京都府向陽保健所、京都市衛生研究所を経て、京都府立大学に勤務。1990年退職。働く人の生命と健康を守る全国センターなどの参与をつとめた。
2020年1月21日、永眠。

※細川汀先生より弊社代表黒川に送られて来た季節の絵手紙の一部。

ふきのとう

うさぎ狩り

流しびな

文理閣のホームへ戻る

©Cpyright Bunrikaku publisher